戦国時代末期の1587年、天正15年
豊臣秀吉により肥後を治めるように命じられた佐々成政による検地に反発し、隈部親永ら肥後国人・国衆が反乱を起こしました。
これが、「肥後国衆一揆」です。
隈部氏ってどんな人だったの?
隈部氏は菊池氏の有力な家来でした。親永の頃には菊池氏に代わり、山鹿・菊池地方を治めていました。
佐々成政はどう対抗したの?
佐々成政は肥後国衆一揆のときに自らの城である隈本城が攻められてしまいます。成政は軍を引き揚あげる際さいに城村城じょうむらじょうの備そなえとして「東付城ひがしつけじろ」「西付城にしつけじろ」を築きずきました。現在げんざいはそれぞれ城跡しろあととして残のこっています。
肥後国衆一揆ひごくにしゅういっきはどうなったの?
肥後国衆一揆ひごくにしゅういっきでは親永ちかながは子この親安ちかやすの住すむ城しろ、山鹿市城地区やまがしじょうちくにある城村城じょうむらじょうにたてこもり、果敢かかんに抵抗ていこう。しかし、圧倒的あっとうてきな秀吉ひでよしの軍勢ぐんぜいを前まえに最後さいごは降伏こうふくします。
山鹿市菊鹿町やまがしきくかまちの「あんずの丘おか」に立たつ親永ちかながの銅像どうぞうは、支配しはいした菊鹿平野きくろくへいやを扇おうぎで指さし示しめしていて、領主りょうしゅとして望のぞんだ領地りょうちの平穏へいおんとそこに住すむ人々ひとびとへの思おもいやりが表現ひょうげんされています。