山鹿市の北東部、蒲生地区にある「湯の口溜め池」は、江戸時代としては、県下最大級の溜め池です。
どうしてこんな大きな溜め池が必要だったの?
古くから水が乏しいこの地域では、日照りが続くと米が取れず、苦しい生活を送っていました。江戸時代末期、この地に惣庄屋兼代官としてやってきた遠山弥二兵衛は溜め池造りを計画。
遠く上内田川からおよそ3キロの水路を掘り、さらにその間には1kmのトンネルをくり抜くなどの大変な工事を3年がかりで成し遂げます。安政4年(1857年)のことでした。
完成の日、いよいよ溜め池の水門を開けるとき、弥二兵衛は白装束姿で刀を持ち、万が一、堤防が崩れるようなことがあったら、切腹する覚悟だったと言われています。
溜め池の完成により、水不足が解消し、下流域の水田およそ30ヘクタールが新たに開発されました。
溜め池が完成して、村人の暮らしは変わったの?
米の収穫量は一反あたり2俵から5~6俵に増え、ため池ができたことにより、村人の暮らしは豊かになりました。
弥二兵衛の死後、堤防の上に築かれた遠山神社では、その功績をたたえる祭りが毎年4月4日に営まれています。