ふるさと山鹿の歴史

近現代きんげんだい

できごと

西南戦争(せいなんせんそう)

江戸幕府えどばくふたおした明治政府めいじせいふ政策せいさく不満ふまんをもった士族しぞくたちが、各地かくちあらそいをおこしました。
西南戦争せいなんせんそうはそのうち最大さいだいのもので、日本にほんでは最後さいご内戦ないせんです。西南戦争せいなんせんそう田原坂たばるざかたたかいが有名ゆうめいですが、山鹿やまがおも戦場せんじょうとなり、政府軍せいふぐん薩摩軍さつまぐんはげしい戦闘せんとうがありました。

山鹿やまがでの戦闘せんとうはいつこったの?

山鹿口やまがぐちたたかいのはじまりは、いまからおよそ150年前ねんまえ明治めいじ10ねん(1877ねん)2がつ26にち官軍かんぐん本陣ほんじんとなったのは、津留正円寺つるしょうえんじ戦闘せんとうは24日間かかんつづき、久留米方面くるめほうめんからめてくる政府軍せいふぐんと、きたかう薩摩軍さつまぐん山鹿やまが平山ひらやま鍋田なべた何度なんど激突げきとつしたのです。

戦闘せんとうたおれた兵士へいしは400人以上にんいじょうとされ、銃弾じゅうだん古墳こふん墓石はかいしけずり、山鹿やまが人々ひとびとげまどい、たくさんの民家みんかちました。

山鹿やまがでのたたかいはいつわったの?

3がつ20、ついに西南戦争最大せいなんせんそうさいだい激戦地げきせんちである田原坂たばるざか政府軍せいふぐんちました。よく21にち未明みめいいきおいに政府軍せいふぐんは、山鹿やまがまもりをかためていた薩摩軍さつまぐん攻撃こうげき薩摩軍さつまぐん菊池方面きくちほうめんへと撤退てったいしていき、政府軍せいふぐん山鹿やまがまち完全かんぜん制圧せいあつしたのです。あとには、はげしい戦闘せんとう傷跡きずあとのこり、山鹿やまが人々ひとびとはその復興ふっこうちからそそいだとわれています。

飫肥隊奮戦の地(おびたいふんせんのち)碑全景の写真

飫肥隊奮戦の地碑全景おびたいふんせんのちひぜんけい

弾痕の写真01

弾痕だんこん01

弾痕の写真02

弾痕だんこん02

弾痕の写真03

弾痕だんこん03

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